第4代主将:#45LB 相原 隆士(1993年)
私が主将を務めたのは1993年。
日本アメフト協会への正式加盟から4年目で、初昇格した2部からわずか1年で降格し、3部(関東社会人1部)での出直しのシーズンだった。
まだまだチーム創生期であり小所帯であったが、それ故にチームには家族的な一体感があった。
そう言えば、主将を決めるのはとても難航した。
当時、チームとしての実力はまだまだであったものの、練習や部内の規律は思いのほか(?)厳しく、前年まで主将の清水(淳)氏の苦労を目の当たりにしていたため、みな主将になることには腰が引けていた。
最終的には「全員でサポートするから」という当時の主力メンバーの言葉に渋々引き受けたものだ。
私のチーム牽引方法はとにかくわめき、怒鳴ること。
鬼の形相で味方を鼓舞するということに終始した。
社会人からアメフトを始めたメンバーも多くいたが、彼らにも容赦なく怒鳴り散らした。
彼らと久々に再会すると、現役時代どれだけ恐ろしかったか指摘されることがあり、随分理不尽な主将であったと今更ながらちょっとだけ反省したりする。
でも、コーチ時代も一貫してこのスタイルは続いたっけ。
平日も含めて多くのメンバーが練習に参加しチーム力は上がっていったが、秋のリーグ戦では、3位という成績に終わり2部復帰の目標は残念ながら果たせなかった。
前座だが東京ドームでの試合も組まれた。
相手はシルバーオックスだったか。この敗戦は悔しかったなあ。
シーズン終了直後、関西所属の全日空とも千葉マリンで試合をした記憶がある。これはロースコアで勝利した。
当時は今は無き金沢グランドでの練習も多く、その際に練習通いの経路上にある当時新人の森本(93年入社)の送迎を多くやった記憶がある。なんでだ。
シーズン終了後、「みんなでサポートするから」と言って、藤田(紀)に主将を任せた。