2015合宿

8月7日夜から2泊3日の合宿を行っています。
今年も東京ガス大森グランドのラグビー場をお借りしています。
7日夜の集合時「WELCOME TO 2015合宿!」とカートHCの第一声で合宿スタートとなりました。
黒沢監督からは素晴らしい環境で練習ができることに感謝しようとお話がありました。
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日中は今年いちばんの暑さで外にいるだけで辛いような気温でしたが、18時30分練習開始ということもあり、風が吹くと気持ちのよい環境で練習することができました。初日の夜は夕食を食べながらミーティングをし、22時30分をすぎてやっと解散となりました。
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合宿2日目は8時30分から練習開始となりました。
猛暑になるかと心配していましたが、本日も曇りで風が吹くと涼しいと感じる気候となりました。
例年合宿時は猛暑日となっていましたが、今年は本当に練習しやすいよい気候です。
午前練習が終わり、みんなでランチタイムとなりました。
ポジションや年齢関係なく、わきあいあいとした時間になりました。
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練習後、身体を冷やすため仲良くプールに入ろうとするOL陣。
自分たちでプールを運んで水をためて準備中・・・。
「近くにある荷物を絶対に濡らさないように!」と声をかけたところ、ブルーシートで防御していくれていました。
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やっと水がたまっりみんなでざぶーん!
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TRさんからあまった氷をもらって快適かつとっても楽しそうな様子でした。

午後は暑い時間を避けるためミーティングと昼寝の時間となりました。
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夜は18時30分から練習開始です!
2015年の合宿も残すところ半分となりました。
最後まで全員で走り切ります!

【write : meg】

【歴代主将紹介】第9代 吉川浩

第9代主将:#15RB 吉川 浩(1999~2001年)
入社3年目から約10年間幹部に就き、1部昇格前の3年間は主将を任されました。
ただただ春の1部2部交流戦(PEARL BOWL)で1部のチームにアップセットする事をモチベーションにチームを鼓舞。
やはり課題は練習参加率でした。
その時代はメンバー全員が社員だったので、木曜の17時くらいに全員メールで「今日は練習、職場を出よう」と発信、近くにいる選手の職場によく迎えに行きました。
土日の参加率を上げる為に、先輩の奥様達と食事をし協力のお願い。
その分試合に負けると会場で奥様達に囲まれ叱咤激励、選手よりも熱い奥様達でした。
最近10年はXリーグ1部という最高のステージでアメフトができ、誇りと感謝でいっぱいですが振り返ってみると、1勝や1敗に職場も家族も一喜一憂していた苦しくも楽しい熱かった2部時代が思い出されます。
今のチームに求められるのは勝つ事、日本一になってチームを築き上げてきた先輩・奥様方、理解頂いた上司ともう一度盛り上りたい。

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【2014年最終戦。現役生活20年、最後のタッチダウン】

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【歴代主将紹介】第5代 藤田紀一

第5代主将:#68OL 藤田 紀一(1994~1995年)

バブル景気が弾け始めながらも、まだ手厚くスポンサーから援助を受けるチームが多い中、部員が40名を欠きその半数近くが社会人からフットボールを始めたメンバーが占めるCREATORSは、はっきり言って勝利するには厳しいチームであった。

練習メニューも選手で決めるし、試合時のプランやプレーも選手で決める、チーム運営を含め全て自分達で行って来た。

そのようなチーム状況でも「試合中相手に走り勝てれば、試合に勝つことができる!」とほぼ根性論で走り込みを中心に練習をこなした。
木曜日の練習後は、花寿司や山城屋で幹部ミーティングを行ない練習の反省、試合のプランやメンバー検討などを活発に議論した。
勿論お酒を酌み交わしながらの熱い議論であったため、次の週末練習で議論の結論が思い出せないことも多々あり。。。
酔いに任せずしっかりとメモをとることの大切さを学んだ。

このようにどうにかフットボールの体を成しているようなギリギリのチーム状況を選手自身が認識しながらも夏合宿のミーティングで10年後日本一になるにはどうしたら良いか真剣に議論をするなど、松田部長の勢いに飲まれた感は否めないが、夢見ながらフットボールをしていた。

今回のメッセージ作成の依頼を受け、久しぶりに過去の試合のDVD(VHSビデオからコピーしておいたもの)を見てみた。90年代は関東社会人リーグと東日本社会人リーグ2部を行き来する状況が続き、私が主将を務めた94、95年の2年間は、94年に関東社会人リーグ優勝をし、東日本社会人リーグ2部(X2リーグの前身)へ昇格、95年は東日本社会人リーグ2部で2勝3敗、どうにか残留をすることができた。
3敗中の2敗はすかいらーくと日本生命に大差で敗したが、IBM戦では16対14の惜敗、最後ゴール前のファンブル(確かCREATORSレジェンド吉川氏だったかなぁ(笑))で逆転できず今は亡き同期と悔しい思いをしたことを懐かしく思いだした。

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【1995年 五十嵐部長退任時集合写真】

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【2006年】                  【2012年引退年】

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【歴代主将紹介】第4代 相原隆士

第4代主将:#45LB 相原 隆士(1993年)

私が主将を務めたのは1993年。
日本アメフト協会への正式加盟から4年目で、
初昇格した2部からわずか1年で降格し、3部(関東社会人1部)での出直しのシーズンだった。
まだまだチーム創生期であり小所帯であったが、それ故にチームには家族的な一体感があった。

そう言えば、主将を決めるのはとても難航した。
当時、チームとしての実力はまだまだで
あったものの、練習や部内の規律は思いのほか(?)厳しく、前年まで主将の清水(淳)氏の苦労を目の当たりにしていたため、みな主将になることには腰が引けていた。
最終的には
「全員でサポートするから」という当時の主力メンバーの言葉に渋々引き受けたものだ。

私のチーム牽引方法はとにかくわめき、怒鳴ること。
鬼の形相で味方を鼓舞するということに
終始した。
社会人からアメフトを始めたメンバーも多くいたが、彼らにも容赦なく怒鳴り散らした。

彼らと久々に再会すると、現役時代どれだけ恐ろしかったか指摘されることがあり、随分理不尽な主将であったと今更ながらちょっとだけ反省したりする。
でも、コーチ時代も一貫してこのスタイルは続いたっけ。

平日も含めて多くのメンバーが練習に参加しチーム力は上がっていったが、秋のリーグ戦では、3位という成績に終わり2部復帰の目標は残念ながら果たせなかった。
前座だが東京ドームでの
試合も組まれた。
相手はシルバーオックスだったか。この敗戦は悔しかったなあ。

シーズン終了直後、関西所属の全日空とも千葉マリンで試合をした記憶がある。これはロースコアで勝利した。

当時は今は無き金沢グランドでの練習も多く、その際に練習通いの経路上にある当時新人の森本(93年入社)の送迎を多くやった記憶がある。なんでだ。

シーズン終了後、「みんなでサポートするから」と言って、藤田(紀)に主将を任せた。

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【歴代主将紹介】第3代 清水淳

第3代主将:#44LB 清水 淳(1991~1992年)

1年目(1991年)シーズンは、関東社会人1部リーグに所属。
フットボール経験のある新入部員を迎え、春のジュニアパールボウルでは、太陽神戸三井銀行(当時)と対戦、【3-9】という接戦を演じました。
その勢いのまま、秋のシーズンでリーグ優勝、2部との入替戦抽選で一番対戦したくないハスキーズを引いたものの、なんとか勝利し、東日本社会人2部リーグ昇格を果たすことができました。

2年目のシーズンは、強豪揃いの東日本社会人リーグへの初挑戦でしたが、秋のリーグ戦で全敗、入替戦にも敗れ、関東社会人降格というシーズンとなりました。
私自身も春、秋に膝を怪我したこともあり、プレーの面でもチームに貢献できない残念なシーズンでした。

ジェットコースターのような2シーズンでしたが、当時はチーム内の半数近くが学生時代未経験というメンバー構成で、チーム全体の底上げと試合での勝利を追求した、厳しくも楽しく、かつ、勉強になるシーズンだったと記憶しています。

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